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Vol.32:こわ〜い女(ひと)
Vol.33:フランスのモーツァルト
Vol.34:うかれるとき
Vol.35:笛吹きの心理
Vol.36:新しいということ
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(クライス・フルート・ソロイス
Vol.31) −体力勝負だ!フルートのベートーヴェン〜 クーラウ 〜− 普通、クーラウと言えばピアノのためのソナチネを思いおこす。♪ドーミーソー、ソソソ、ソドミードドーシー 〜♪という、あれ、である。ピアノを習う人なら、初級のウチに必ず習う。しかし、クーラウの本領はこんなものではない、本日お聴き頂く曲、特に無伴奏のフルート二重奏に彼の本領が発揮されている。まさに、フルートのベートーヴェンである。 そもそも、クーラウはベートーヴェンを大変尊敬していたらしい。ベートーヴェンのようになりたいと思っていたかもしれない。いや、可愛さ余って憎さ百倍、逆に嫉妬に悶えていたかもしれないが、音楽家としてベートーヴェンに近づこうと思っていたに違いないのである。作品を聴けばよく分かる。クーラウは、2度目にしてやっと憧れのベートーヴェンに会うことが出来た。1825年クーラウ39歳の時のことである。ウィーンを訪れたクーラウは、ベートーヴェンがウィーン近郊の温泉保養地バーデン(ドイツ語でお風呂の意)居ることを知りバーデンへ向かった。バーデンへ着くと、休む暇もなく健脚のベートーヴェンに引きずられるようにして「散歩」に出たという。散歩、と言うのにはほど遠い、バーデン・死の彷徨と言った方が良さそうだ。そして、ワインで夜中まで盛り上がった。よほど嬉しかったに違いない、酒豪を自認するクーラウが、ベッドにどうやって戻ったか記憶になかったそうなのである・・・・・。 かくして、クーラウはベートーヴェンへの尊敬と羨望、そして嫉妬がいり混ざった複雑怪奇な気持ちで作品を作り続けた(に違いない)。膨大なフルート作品は、フルーティストにのみならず、クーラウの重要な主要作品であるが、たった2本のフルートのために、誰が演奏に20分もかかる大曲を作曲しただろうか。しっかりした構成、フルートの性能を余すことなく引き出させるテクニック、演奏家という人間の限界に挑戦したような無謀な曲。フルーティストとして、また作曲家として活躍したドップラーでさえ、こんな曲は書いていない。そう、クーラウは、フルーティストではない。フルートも吹いたらしいが、下手の横好き程度だったらしいのだ。だから、フルーティストにこんな無理をさせたのであろう。クーラウのフルート作品は、どれも美しく、しかもヴィルトゥオーゾで、演奏しても聴いても飽きることがない。ただし、体力と気迫が満ちていれば、の話なのである。 M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.32) −こわ〜い女(ひと)− 繰り返し申し上げるが、当サロンコンサートのシリーズは、日頃あまり演奏されない曲を取り上げるのを旨としている。よって、楽譜屋サンの上得意様なのである。先日も、フルート・トリオの楽譜を ちょっと 買ったら、値段の計算をしていた店の女の子が、「先生ェ〜、凄い値段になっていますよーー」「え?そぉ、いくら?」以前、12万8千円一気買いしたことがあるので 余 裕 である。「5万くらい?」「いえ、これだけ」と、その女の子は指を 8本 立てたのである。げげげ。いくらなんでもそこまでいくとは。予想外である。よく見ると、何の変哲もない、つまりどう見ても高そうに見えない楽譜が1冊7500円。それを上下で15000円。高すぎるよーーー。 とにかく買った。店の女の子に「やめときます?」といわれても、全部買ったのである。つまりこれは、ミニヨンへの情熱なのである。決して見栄ではない。支払いは、当然「ツケ」。ま、威張れることではないが。 フルート2本から4本までの楽譜を、まんべんなく網羅している。選り好みはしない。様々な時代の、いろんな曲がある。その中で、比較的演奏会で取り上げられるのはごく一部である。あまり演奏会で取り上げられないのには理由がある。奏者の不勉強(曲を知らないということ)を除けば3つある。
1.つまらない (1)は、まあ、ありうる。でも、それを面白く演奏するのが腕の見せ所、演奏者の仕事、と、思っている。(2)、そりゃそうだろうな、フルートの合奏なんて継続するのは難しい。それをやっているのだ、我々は(自画自賛)。 問題は(3)。ええ?プロでもそんなこと言うの?何でも、かる〜く出来るんじゃないの?・・・そんなことはない。難しい物は誰にだって難しい。真理である。事実である。それなのに、そんなことはお構い無しに私はホクホクとプログラムを組んでしまう。するとどうなるか。共演者に恨まれるのである。「まったくぅ、こんな大変なプログラム組むんだからぁ。また知恵熱出そう(前科あり)」。練習の合間にも「ここの難しいところだけ吹いてくれない?分かち合いましょうよ」と、ちくちく言う。このひと、6月には母になる。もう既に強いのである。ああ、母は強かった。そして恐かった。 M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.33) −フランスのモーツァルト− と、何故言われるのか。相手はかの天才音楽家モーツァルトである。言われる方も名誉かもしれないが、そう言われるだけで名誉だと感じさせるモーツァルトも偉い。よってモーツァルトの、勝ち、である。 まず、活躍した時代が同じだった。モーツァルトは1756年生まれ、ドヴィエンヌは1759年生まれだから3歳年下だ。モーツァルトが活躍したウィーンでは、今で言う「ウィーン古典派」の真っ盛り、多くのヴィルトゥオーゾ達のかもしだす優美な音楽で多くの人々を魅了していた。その優美さをドヴィエンヌの音楽は持っている。そして、フルート奏者としても天才肌だった。そんな理由もあって、「フランスのモーツァルト」といしう栄誉を頂戴しているのである。 ドヴィエンヌはフルート奏者であったから、当然フルートの作品が多い。そもそもは、スイス軍の軍楽隊出身で(私の師匠の年代にも軍楽隊出身の音楽家が沢山いた)30歳で劇場のファゴット奏者になり、36歳から没する前年の43歳までパリ音楽院の初代フルート科教授の地位にあった。フルート以外の器楽曲や劇音楽を残しているのは、こんな経歴の為せる技であろう。 フルート音楽に話を戻すと、ソナタや協奏曲の他、デュエットや本日演奏するトリオなどがある。定かではないが、本日演奏するトリオの原曲は2本のフルートとチェロのための作品らしい。この編成ですぐ思い出すのは、ハイドンの「ロンドントリオ」である。ハイドンと言えばウィーンで活躍した古典派の大家、ベートーヴェンの師匠である。何かロマンティックな「縁」を感じるではないか・・・。 古典派の多くの作曲家は、室内楽に一生懸命だった。室内楽こそ古典派の真骨頂、と言っても良いだろう。しっかりとした構成、中途半端が嫌いだ。役割分担がはっきりしていて、主旋律を受け持つのか伴奏を受け持つのか、聞いていてはっきりしている。例えばこんな風に・・・・・・・ 1stを受け持つK氏、体調も完全、颯爽とメロディを吹きはじめました。あ、完璧です、調子良いようですね。最初からこんなに飛ばして大丈夫でしょうか、、、あああっと、3rdのマダムO、メロディに乱入して来たぁ、伴奏に飽きた様子、母は強し、これにはさすがのK氏も伴奏に引き下がるしかない。おおおっと、よく見るとその年齢に似合わぬ童顔のE嬢、どうして良いか分からず、おろおろ、取り敢えず内声を控えめに埋めたぁ・・・・・ M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.34) −うかれるとき− みなさん、春ですねぇ。天気が良くても悪くても、暑いことはあっても寒いことはなくなりました。1年の中で一番うかれる季節です。新しい年度が始まり、一喜一憂、誰もが 詩人 になる季節です。いえ、だからといって無邪気にうかれているわけではありません。心が豊かになる時の1つだと感じているわけです。 車の窓を全開にして走らせているとき、草むらの脇を通り過ぎると、昨日までしなかった虫の音が聞こえたりします。ふと気が付くと、空気の匂いが違っていたりする。季節は突然変わるのですね。徐々にではありません、ある時ぱっと変貌します。だから、気が付くと季節が変わってしまった後なのですね。その瞬間に気付いたとき、ちょっと嬉しくなったりします。うかれるときです。 我々楽器を演奏する音楽家にはもっと単純にうかれるときがあります。演奏が上手くいったとき−−−あれは違います、あれは有頂天になるとき、歓びです。うかれるのは、たとえば、自分の楽器の調子が良いとき、意のままの音色が出せて楽器が美しく見えるときなどです。つまり、楽器の機嫌が良い時うかれた気分になります。不思議なものですね。単なる工業製品なのに、あたかもそこには意志があるように感じられる。気のせいではありません。事実は、演奏する人間の体調や精神状態の問題なのでしょうが、とてもそうとは思えないのです。 都市部に生活するということは、常に刺激があるということです。別に悪いことだとは思っていません。時には必要ですから。ただ、ちょっとした自然界の変化を感じていたいと思っています。ちょっとした変化をも感じ取る感性は、毎日の生活を豊かにすると思うからです。もし、それらの些細な変化を感じられなかったらどうでしょう。毎日の生活は単調になってしまうかもしれません。だから、刺激を求めます。しかし人工的な刺激にはすぐ慣れてしまい、より強い刺激を求める。結局はそれにも慣れてしまうでしょう。自然は飽きません、どう変化するか予想がつかないからです。 音楽を伝える人間自身も、1日として同じということはありません。毎日違います。そんな中で音楽を伝えるわけですから、どんな些細なことでも見逃すわけにはいきません。演奏は、敏感で豊かな感性が問われる瞬間です。楽器同様、楽譜も違って見えるときがあります。音楽家が、楽譜や楽器と「対話」するというのは本当のことなのです。 M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.35) −笛吹きの心理− 本日演奏する、カステレードの「笛吹きの休日」はまことに楽しい曲である。各楽章に付いたタイトルのように、軽快でいて愁いがあり、文句の付けようがない。まさに、笛吹きの性格を端的に表している曲なのだ。 だいたい、笛吹きの多くはその始めた動機が面白い。曰く「音色が美しい」、曰く「一人で目立つ」そして、「持ち運びに便利」。持ち運びは音楽に関係ないだろうに。そんな、関係のないことまで一緒にしてしまう笛吹きは、とても楽しいのである。 他の楽器奏者はどうなのだろう。 ある有名なピアニストの話・・・夜突然はね起き、夜中だというのにピアノを弾き出す。「今ね、夢にね、ショパンが出てきてさ。こう弾けって言うんだよ、チャリラリラァァァァン、ほらね、弾ける、弾けなかったのに弾ける、ほら、タタタタタタァァァー、ほら」。紙一重である。神がかっている、まったく。 今度はヴァイオリン、とある有名交響楽団の首席奏者、本番直前の楽屋で入念な音色のチェックに余念がない。「これ、ヨーロッパのオーディションで出たんだよな」と言いつつバッハのソナタ・ハ短調を「ソーミレ、ドーシド、ドー、ん?、ソーミレ、ソ、ソソソソ、ソーミレ、ド」なかなか先へ進まない。私は早く先が聴きたい。挙げ句の果てに「弦を支えているこの駒の位置がいまいちだな、、、うん、0.5mmずれてる」付き合いきれない。そして「ソ、ソ、ソーミ、ソーミレ」私は、外へタバコを吸いに出ていってしまう。 またまた有名交響楽団の、今度は首席ファゴット奏者。演奏会へ向けて練習の時のこと。いつも三つ揃いのスーツをビシッと決め胸ポケットにチーフを欠かさないダンディーな紳士、しかしその日は違った。部屋に入ってくるなりやけにはしゃいでいる。「この楽器、よぉーく鳴るようになったの」。なんでも、ファゴットの先に付いている わっか を象牙製の物に替えたのだとか。「タラララララララーーブゥー、ほら、この低音、ブブブー、ほら、重厚でしょ」全然分からない。他のメンバーも沈黙。 まあ、どの方も情熱だけは引けを取らない。楽器に対する愛情も深く大きい。神がかっているひと、神経質な人、無邪気な人で1つの音楽を作り上げるのだから不思議な物ですね。え?笛吹き?そりゃ、自作の曲に「3人の名手」なんてタイトル堂々と付けて、演奏してしまうんだから、音楽家に最も向いているに決まっているじゃないですか! M.K. |
(クライス・フルート・ソロイス
Vol.36) たまには共演者の方にも一言頂戴する事に致しましょう。最近アンコールのアレンジが絶好調の近藤さんの登場です。
・ ・ −新しいということ− 近藤 盟子 今回のプログラムは全て今世紀に生きる作曲家達の作品ばかりです。現代曲というと難解なイメ−ジがありますが、ショッカ−にしろタクタキシビリにしろメロデイ−がとても親しみやすく、ポピュラ−音楽の様です。(クラシックやポピュラ−といった分類は難しそうですが・・・) 昔、高校生の頃に師事した作曲の先生の新作を聴きに行った時のこと。ピアノの弦をかなずちで叩き 手を使って鳥の鳴き声を出し 終わりのない終わりといった風で聴衆も用心して演奏者がお辞儀をするまで誰一人として拍手をしませんでした。 よく分からないものを分かったような顔をして聴くのが現代曲のイメ−ジでした。後日レッスンにて感想を求められ、良かったなどと当たり障りのない答えをしつつも、思わず”あの曲は何分で出来たんですか?”と訊いてしまい、”そんなに簡単に出来たように聞こえた?”と顰蹙を買いました。(でも実際そんなに時間がかからなかったそうです。) ピアノ曲といえば受験曲もしかりでバッハ、ベ−ト−ベン、ショパンの作品ばかりをひたすら弾いてきた硬く干からびた脳みそに、大学で先輩が弾くスクリャ−ビンやプロコフィエフの音楽が鮮明な光を放って入り込んできたことを思い出します。これらは”近代”の曲であって最早クラシックになってしまっていますね。 バルト−ク、バ−バ−、ヒンデミット、メシアンなどの個性的な作風があらゆる楽器を編成問わず生き生きとさせてくれます。 ピアノに関していえば、もともと打楽器だったことを思い出させてくれるような無機質な使われ方をしているように感じます。今回の曲もピアノという楽器を弾いているからこそこんなに心が弾むのだと感じます。 某デパ−トでフランクのヴァイオリンソナタ全曲が全館に流れていました。きっと多くの人に知らず知らずやすらぎを与えたことでしょう。(名曲ですもの!)現代の曲ももっと身近にあっていいですね。 もうすぐ21世紀になり、曲達も私達もさっさとクラシックになってしまいますが音楽を楽しむ耳と心はいつも 新しくありたいものです。 M.K. |
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記録 後記 |
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